ぐうたら亭主にはしっかり者の女房、割れ鍋に綴じ蓋と言うけれど、『京の螢火』の主人公お登勢と伊助夫婦を中心とした物語は爽やかな後味を残す娯楽時代劇であった。
織田作之助の「螢」と司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を原作としたこの作品が明治座で昭和46年に初演された時、北条誠の脚本は“お登勢と龍馬”という副題が付いていた。
今回は、わかぎゑふによる脚本・演出は夫婦を始めとして主に男女三組の組み合わせが描かれるオリジナル作品に生まれ変わっていた。『夫婦善哉』で知られる無頼派作家・織田、そして歴史小説の大御所・司馬の名作を融合させたのが眼目である。
今年は大政奉還、さらに暗殺された坂本龍馬没後150年という節目だった。『京の螢火』の時代は幕末、場所は京都伏見。まさに明治維新直前の動乱期を舞台背景に庶民が何を考え、どう生きたのか、荒波の中で殉じた英雄と志士たちとの関わり合いが描かれていた。
船宿寺田屋に嫁いだお登勢を演じたのが黒木瞳。清潔好きで掃除や浄瑠璃にいそしみ、二号さんまで作る変わり者で極楽とんぼの亭主と結ばれる。しかし姑や義妹らにいじめられる若女将として店を切り盛りしながら、肝が据わった辣腕女将へと成長していく姿が凜とした芝居だった。
純白の花嫁衣装、綿帽子をかぶって寺田屋への船着き場に向かう花道からまず出た黒木。一瞬、綿帽子を上げて見せた表情が美しく、また、やがて何色かに染まっていく白い着物、手に止まった一匹の蛍が飛び去っていく最初の幕開きが鮮烈。蛍とやらは発光する虫とやら。人は皆、自ら光を放つ蛍のようであり、お登勢という女は人の前で行き先を明るく照らす蛍と暗示させる。
嫁いびりとなるのが一幕三場。沢田亜矢子の姑お定、桜乃彩音が演じた義妹お椙、さらにお椙が慕う河相我聞の五十吉がグルになって追い出し作戦を仕掛ける場面がある。黒木はここでグッと耐え抜く芝居をする。我慢を重ねる芝居に強弱を付け続け、少ない動きで感情を出した。女性の観客が同情を寄せているのがわかる。
一方で続く四場。船便を増やすため新たな船を作るのででは費用が嵩んでしまう。商売仲間から自分なりの考えを迫られたお登勢は、船頭を増やすという意外な提案をするのである。その機転。お定から「立派な女将になった」と初めて褒められた時の顔の表情が可愛い。ここから肝を据えた女将へと成長していく機転となった。
主人の伊助は筧利夫。これまで扮してきた役柄から一変、新たな一面を開拓した。ミュージカル『ミス・サイゴン』の主役エンジニアなどのパワフルな演技、また独特の間(ま)による喜劇味が持ち味だが、つかみどころのない京都の商人役が嵌まっていた。パタパタとはたきを使って登場し、至る所を叩きまくれば箒まで持って掃除をしまくる。一幕では台詞が限られてはいたものの、ヒョコヒョコと歩き回る芝居だけでも面白い。ただ掃除をしているのではなく、周囲の声や気配を嗅ぎ取っているからだ。
寺田屋の先代主人の七回忌である四場になると、一転して落ち着いた亭主になって演じてみせた。動から静へ。切り替えが鮮やか。二幕の幕開けでの川踊りの場面では、筧の手拍子に合わせて客席から一斉に手拍子が起こったのには驚いた。大劇場で本格的な時代劇は初めてらしいが、白い歯を剥き出しにした笑顔の愛嬌がそうさせたのだろう。
おりょうと龍馬のもどかしい関係が他の男女との相異になっていた。この舞台でのおりょうは若い娘である。演じたのは田村芽実。お嬢様として生まれ育ったのだが、おてんばで気性が激しい娘。龍馬だけしか目が向かない一途さ。難しい役といえる。
おりょうの見せ場は二回ある。最初は寺田屋の店の中に見事に咲いた菊の花を懇望する 場面だ。長く伸びた名物の花だけを切り落としたいというのである。それを乾かして龍馬の枕を作るとお登勢に迫る。和物の芝居が初めてという田村は着こなしにしても、台詞回しにしても物足りないが、若さを惜しげなく出していたのが心強い。次が龍馬襲撃の場面である。危機を知らせるために襦袢を羽織っただけの姿で龍馬の前に走り込んでくる。ここがいい。愛する男のためには命がけ。若い娘心の必死さは出た。
そして龍馬が藤本隆宏。骨太である一方、不器用な維新の英雄をおおらかに演じた。舞台『京の螢火』での龍馬は、お登勢、そしておりょうという二人の女の間に立って、激動の時代で生きる厳しさを教え、しかしながら同時に女性の鋭い感性にも学ぶ男である。二幕三場の幕切れ。「血流さんとどないかなりませんか・・・血流さんと。ほんまじゃのう」と無血闘争を呟く芝居が印象的だった。
お椙と五十吉の二人も時代に翻弄された男女である。五十吉に一時は捨てられるお椙。それでも巡礼姿となった夫婦として生きていく。桜乃と河相が旅立つ芝居に情愛があった。
出番は少ないが有馬新七と中村藤治郎の二役で存在感を見せたのが渡辺大輔。一幕の有馬では有名な寺田屋騒動の斬り合いがよかった。薩摩藩の急進派と穏健派との間でぶつかった対立である。「おいごと刺せ!」激闘の中、正面から刺される有馬。渡辺の立ち回りは素早く、鋭く、そして力強い。武闘派の志士を若々しく、また凛々しく演じた。立ち回りが少ない舞台でもあり、時代劇の面白さが現れた場面になった。有馬と瓜二つで似ている藤治郎の役では有馬と酒を酌み交わすやり取りが楽しく見えたが、渡辺は武士の姿と台詞の明快さを褒めたい。
今回の舞台は一幕の幕開けから快調な滑り出しだった。寺田屋の奉公人たちの語りで人間関係がよくわかるし、舞台中央にドンと置かれた大きな寺田屋のセットを回転させてスピーディーな舞台転換が実に効果的だった。わかぎゑふのメリハリが効いた脚本と演出の成果だ。玉造小劇店という集団で小・中劇場を拠点に活動しているわかぎだが、久しくなかった大劇場での時代劇の楽しさを演出したのは大出来。特に各場の幕切れが強い印象を与えていた。蛍が群れとなって飛び交う一幕二場、お登勢と伊助では三場と四場。殺戮を見続けた後、赤子を抱いて呆然と立ち尽くす場面もいい。先に書いた龍馬の独白、さらに二幕一場は蛍が飛んでいる中、お登勢、龍馬、おりょうの三人の微妙な関係を想像させるやり方だった。
「個人の力じゃのうて、みんなの力が集まることじゃ。ひとつになることなんじゃ」。龍馬が藤治郎に倒幕の大仕事を成すための意見する台詞など、どこかの国の野党に聞かせたいものだが、単にお登勢・伊助夫婦の愛情物語ではなく、日常生活の中でもがく三人三様の女性の生き方も描いたのが『京の螢火』ではないか。大きな世界と小さな個人の世界との対比にもなった。
ところで、カーテンコールの代わりに上演されたのが奇抜なエンディング。今公演はこのエンディングに限って客席からの写真撮影がOKであるという。出演者が総出となって蛍祭りの川踊りになった。「ひとみ あんど としお節」という曲を歌いながらの総踊り。作詞も企画・演出も黒木瞳だという。
「おんなを舐めてはいけません、強く未来に目を向けて」とか「おとこを舐めてはいけないぜ、好きなおんなにゃ命をかける」。努力、あるいは一生懸命やっている人が幸せになれる―。芝居の最後はやっぱりハッピーエンド。これで観客が励まされるというのが大衆演劇のお決まり。エンディング同様に『京の螢火』は群衆劇であった。
(演劇ジャーナリスト 大島幸久)
東京生まれ。団塊の世代。報知新聞にて演劇を長きにわたり取材。演劇ジャーナリストに転身後、現代演劇、新劇、宝塚歌劇、ミュージカル、歌舞伎、日本舞踊などに精通。鶴屋南北戯曲賞、芸術祭選考委員を歴任。著書「新・東海道五十三次」「それでも俳優になりたい」など。9月に「名優の食卓」(演劇出版社)発刊。
大島幸久の『何でも観てみよう。劇場へ!』 http://mety.org/